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「国籍」ディベートの展望

矢野 善郎(東京大学助手(社会学),JDA副会長・プロポジション委員)

web掲載: 2002.5.1


[目次]
1 ワールド・カップ・イヤーの「国籍」ディベート
2 ディベート・ケースの二つのパターン
3 国籍ディベートはどの方向に向かうべきか ― 主要ケースへの反論方法
 3.1 A 現行の価値観をあまり変えないで,法制度の不備をつくタイプの問題
 3.2 B 現行の価値観そのものを(多かれ少かれ)変更するタイプ
4 「国籍」ディベートの本質


1 ワールド・カップ・イヤーの「国籍」ディベート

 2002年は,言うまでもなく,ワールド・カップ開催の年です。W杯は,オリンピックと並び,なんとも「国籍」というもの不思議さを強く考えさせられるイベントでしょう。私なども,現在の国歌など唾棄しておりますし,「愛国」などという言葉のうさんくささを公言してはばからないたちでありながら,W杯がはじまると,知らず知らずのうちに日本代表の応援に熱狂している有様です。有名な話ですが南米では,W杯というたかだかサッカーの大会をめぐって,戦争まで起きたことがあるらしいですが,そうした熱狂の根っこにある国籍nationalityとはいったい何なのか,考えるには良い機会だと思われます。

 それを念頭に置くと,2002年前期のJDA推薦論題として「日本国政府は,日本国籍の取得条件を大幅に緩和すべきである」が選ばれたのは,非常にタイムリーとも言えます。サッカーねたを続けるならば,折しも日本代表チームに,帰化したばかりのアレックス(三都主)が加入し,左サイド突破が日本代表の攻撃ヴァリエーションとして加わりそうです。日本に限らず,ポーランドなどでも帰化選手が代表チームで活躍していますが,そうした国籍取得(帰化)にともなう,より豊かな可能性というのは,このプロポジションの肯定側のとりうる強力なポジションです。このことは別にサッカーに限りません。今年はフィンランド系日本人の国会議員が誕生した年でもあります。

 もっとも国籍取得条件の緩和が,無条件に肯定されるかというと,残念ながらそうとも言えません。異質な人や考え方への差別ということについては,いわゆる「日本人」は定評があります。そうした現状の中で,国籍取得条件を緩和したところで,帰化者も従来の「日本人」も誰も幸せになれない,少なくとも時期尚早だという議論は,かなりあり得るわけで,容易に決着のつかない,重要なディベート論題となると思います(W杯がはじまったらディベートどころでないという人もいるかもしれませんが)。

 この小文では,すでにはじまっている今期のディベート・シーズンで,今後どのようにディベートをやっていけば有益になるかを展望したいと思うのですが,その際に参考になるのはJDAディベート大会です。確かにシーズン初めの大会であり,準備もそれほど煮詰まっているわけではないですが,母語でやっているということも手伝い,事実認識上も価値認識上も,結構本質的(Inherent)な部分をかすった議論はでています。

 ここでは,そこででた議論を材料として,今期の論題をどのような方向に向かわせると,より深い,より実り多いディベート・シーズンになるかを展望(というより,こうなって欲しいなという私の願望)を述べてみたいと思っております。

2 ディベート・ケースの二つのパターン

 プロポジション委員や,ディベートのジャッジをやっていると,現実のディベートがプロポジションの最もおいしい部分までしゃぶりつくしていないと感じ,歯がゆい思いをすることがよくあります。つまり英語ディベート・日本語ディベートに限らず,論題をディベートするに当たって,あまり本質的でない論点がシーズン終わりまで淘汰されずに残り,本来議論して欲しい領域にまで踏み込んでいないという歯がゆさです。

 例えば前の論題(陪審制)で言えば,陪審制によって冤罪を防ぐというのは,因果分析的には非常にトリビアル(些末)な論点です。自白の取り扱いが現在の司法の問題なら,より直接的にそれをなおした方がよく,わざわざ陪審制を導入するというのは変な話です。こうしたトリビアルな論点がシーズン末まで続くというのは,察するに,カウンター・プラン(例えば,この例で言うなら弁護士の取り調べ陪席制度の導入,自白証拠を貶価するような証拠法の改正など)の回し方が下手になっているか,あるいはジャッジのコメントや,ジャッジ自体のカウンター・プランの判断能力の低下(勉強不足)もありうるのかもしれません。

 もちろん一般論として言うならば,シーズンが進んでいけば,些末な論点などは,相手側の出した弊害やケース・アタックや,カウンター・プランなどで淘汰され,議論はよりコアな,本質的なところに収斂していくはずです。ここでは,そう言う訳で,国籍ディベートではどのような方向に進むのが本質的か,そしてそうした方向に進むように議論の淘汰圧力を高める(つまり粗悪な議論がなくなるスピードを高める)には,どのような議論を否定側が出していけばいいのかを考えていきましょう。

 その前に,今回の論題ででてきうるケースの種類をざっと整理してみましょう。JDA大会の際に整理軸として気づいたのは,そもそも「国籍」についての現行の価値観の変更にまで踏み込むようなケースか,そうでないかという二つのタイプがあるということです。それをもとにすると以下のように,整理できると思います。

A.現行の価値観をあまり変えないで,法制度の不備をつくタイプ
1. 申請手続き上の欠陥を是正するケース(例,「煩雑な申請過程」などを簡略化)
2. 制度が想定していない事態について法体系上の不備を補完するケース(例,いわゆる「無国籍児」に日本国籍を授与するケース)
B.現行の価値観そのものを(多かれ少かれ)変更するタイプ
1. 取得条件の運用が「不当」に狭められていることを指摘するタイプ(例,不動産の所有や交通違反を事実上の国籍取得の条件にしていることを改善)
2. 「人権」などの価値に特化し,その価値の実現の手段として国籍取得条件の緩和を論ずるケース(例,無国籍児・不法入国者の子供を救うという価値に特化した国籍授与。他にも,難民の取り扱いなどについても考え得る)
3. 国内の「国際化」にともなう生活のヴァラエティの豊かさを論じるケース(まだ,あまりでていない。アレックスやマルテイ氏が日本に加わることのメリットなど)

3 国籍ディベートはどの方向に向かうべきか ― 主要ケースへの反論方法

 この場合,Aのパターンのケース群は,言うならばセコいケースなのですが,実際にはシーズンで多用されることになると思います。制度(法体系・法運用)の欠陥の結果,「現在なにかしらの社会問題が起きている」という事実認識の点でもあまり異論がなく,「そうした社会問題を解決すべきである」という基本的な価値認識の点でもほとんど異論の余地がないならば,そうした制度の欠陥を修正するというプランの採択を求めるのは,比較的容易にできるからです。具体的には,「煩雑すぎる現在の帰化申請プロセスを簡略化」することを提案するケースや,親が誰かまったく分からないが,いわゆる「日本人」の子供ではないということが推定される日本国内の乳幼児(いわゆる「無国籍児」)に,日本国籍を授与するように法改正するなどというケースです。

 しかしこうしたケースばかりでは,あまりこのプロポジションの面白みは分からないと思います。どちらかというと,今回の論題でディベートをすることを通して,同時に考えて欲しいのは,そもそも国籍については,どのようなスタンスをとるべきかという問題で,既存の価値観をなぞるようなAのパターンだけでは,制度のことは詳しくなっても,若干つまらないと感じられます。アカデミック・ディベートは,論証のゲームでもありますが,同時に私たちの価値観を磨いていくためにも役に立ちうるのですから,価値的・倫理的な領域にまで踏み込むディベートがより望ましいと言えましょう。

 という訳で,特にAのパターンのケースにはやばやと退場してもらうためには,どのようにすればいいか,ざっと見ることにしてみましょう。

3.1 A 現行の価値観をあまり変えないで,法制度の不備をつくタイプの問題

 この手のケースは,一見すると非常に強いケースのように見えます。実際にJDA大会で見られたヴァリエーションで言えば,こうしたケース,特に「無国籍児」の取り扱いが,一番といえるほどポピュラーであったように見えました。要するに,堅くメリットが残せ,かつ弊害が少ない(そもそも「無国籍児」に該当する事例が少ない)ように言われているからでしょう。しかし,そうでしょうか。これへは三つほど異論があります。

 第一に,まず論題に充当しているか(トピカリティ)かについての反論です。否定側としては,論題で議論すべきなのは「国籍取得」の条件であって,取得と言うからには,帰化申請者がそもそも積極的に国籍を求めるという側面がなくてはいけない,そうでなくただ受動的に国籍を一方的に与えるのであれば,「国籍授与」という別の概念になると論じることができます。つまり無国籍児の場合,そもそも赤ちゃんなのですから,取得という積極的なアクションをとることに該当しない,これは(反論の余地があるにせよ)かなり真っ当なトピカリティの議論でしょう。

 英語ディベートの場合も,実は同じようなトピカリティの反論ができます。推薦論題につけられた英語参考論題の表現では,"Resolved: That the Japanese government should significantly mitigate the requirements for acquiring Japanese nationality."となっていますが,ここでは特にacquiringという動詞を同様に問題にして命題を解釈したらいいのです。つまり,この動詞は,求める-quiro (to seek)というラテン語起源でもありますし,acquireのニュアンスとしては,探したinquireないしは,求めたrequireものが実現accomplishしたことであり,積極的に求めていない人に国籍を授与するのは,論題に該当しないと論じられます。

 Aのタイプのケースでは,大抵アクションが小さすぎるので,この論題の場合なんらかの形でトピカリティを論じられると思います。たとえば他にも,帰化申請の際に書かなくてはいけない現状の大量の書類を簡略化するというケースなども,「取得条件」の緩和ではないと論じられます。もちろん強弁すれば,ある種のへんてこりんな申請手続きを踏むことは取得条件の一つだと反論できるのですが,恐らく法律上の規定などを調べれば,書類の記入方法まで「取得」の条件になっているとは言えない,こちらの方が真っ当な解釈と論じられるでしょう。

 ですから,ディベーターやジャッジの皆さんも,今回は命題の解釈については,真っ当な命題性(トピカリティ)の議論がありうることを承知しておいた方が良いと思います。ディベート理論の不勉強故にトピカリティを出さないディベーターや,それ故にトピカリティを無下に却下するジャッジがいたとしたら,この際にDebate Forumなどで勉強して欲しいものだと思います。

 第二の反論は,問題の分析が実は甘いので,特にカウンター・プランの余地があるという点です。カウンター・プランは,問題の本質的な原因があるのかを論じる論点(インヒアレンシー)へ有効な反論方法ですが,Aのパターンのケースでは,せこいが故に,実はよりせこいとも言えるカウンター・プランには脆いと思われます。

 たとえば,申請過程を簡略化するというケースについては,実際の原因分析を精緻にしていけば結構争えるでしょう。単に申請の手続きが難しすぎるのが問題なのか,それならばカウンター・プランで,手続きを補助するマニュアルなどを用意するなどで十分に戦えるでしょう。実際に,申請の際に記載する内容までが問題なのだというポジションを肯定側がとらない限りは(つまり上の,Bのタイプに踏み込まない限りは)大体よりアクションの小さく,デメリットの少ないカウンター・プランが考えられるのではないかと思います。

 はやりの無国籍児ケースで言うならば,実際にはここで言う無国籍児というのは,非常に限られたケースで,実際に問題になるのは,両親が所在不明で,かつ両親が日本国籍でないと強く推定される日本国内の児童の場合だけなのです。そうでないケース,つまり単に両親が不明なだけなら,そもそも国籍法では日本国籍をもらえるはずですし,現状でも十分救済されると論じられますし,両親の本国の法律上の不備により無国籍児になってしまう場合などは,国際相互協定・条約整備などを進めるというより現実的なカウンター・プランも考えられます。

 では,本来の数十件にもみたない両親が所在不明で,かつ両親が日本国籍でないと強く推定される無国籍児の場合は異論の余地がないのでしょうか。これについては,JDA大会で否定側が面白い弊害のアイディアを出していました(実際の試合では,必ずしも,うまくまわせていなかったですが)。そこでは,日本国がこうした児童に国籍を与えるという制度を明示的に作ることで,いうならば安心して児童を遺棄する両親が増える可能性があると論じていました。否定側としては,言うならばこの制度が在留外国人の児童遺棄のモーティべーションを強めるというのです。このアプローチは,価値にまで踏み込んだもので第三の反論の形式になるでしょう。

 実際にはこのAのタイプのケースでは,肯定側は,国籍がとりにくいことが問題だとは論じていても,日本国籍を授与することの積極的なメリットを論じないものです。ですから日本国籍を授与すると言うことで,むしろ別の種類の価値が損なわれると論じるだけで,かなり有利にディベートを進めていけると思います。日本での社会保障の方が,他国の社会保障より進んでいる場合,確かに子供にとってはその観点だけなら得とも言えるのですが,その結果遺棄されてしまう児童が増えるのなら,実際にその子にとって幸せであるかどうか,あるいは社会として健全であるかどうかは,大いに異論の余地があることになります。例えば否定側は,この弊害の深刻さ(インパクト)を高めるため,現在の日本において,両親がいない・かつ肌の色や髪の色が異なった児童がどれだけ過酷な状況におかれうるか論じることは可能でしょう。

 こうした弊害の効果を高めるためにも,現状の方向性を追認し,トピカルにならない形で,国籍を授与するというカウンター・プランもあり得るかもしれません。つまり,国籍の取得条件は緩和しないで,例外としてやむを得ざる処置として(いうならば超法規的に)無国籍児に国籍授与するというカウンター・プランです。これは,実質的な救済を行いつつ,しかも例外性を強調することで,遺棄児童が増加するモーティベーションをそぐというトリッキーなポジションですが,まあ肯定側も言うならばトリッキーなポジションなのでお互い様かなとも言えるでしょう。

3.2 B 現行の価値観そのものを(多かれ少かれ)変更するタイプ

 こうした議論を積み重ねるのなら,他ならぬ日本国籍を取得する条件を緩和することの価値についての議論に踏み込もうとしないタイプのケースは,結構淘汰できると思います。

 となると,残りはそもそも「日本人」と呼ぶべき人の集合を拡大すべきか否かという次元の,より根本的な価値問題に着手するケースを肯定側は論じることになります。

 そのなかでも最も単純な形のケースは,現行の国籍取得条件の運用が「不当」に狭められていることを指摘するタイプのケースです(ちょっと前までは,不動産の所有や,「日本的」な名前を帰化後に名乗ることを事実上の国籍取得の条件にしているという話がありました,そこら辺の法執行の現状どうなっているかは調べる必要があるでしょう)。

 この場合でも,肯定側は「不当」と言えるのは,どのような基準からなのか,そしてその基準にどのような理由で支持すべきなのか,これらを論証する必要があるでしょう。確かに,現行の国籍法は,どう考えても「不可解」な取得条件を科しているかもしれません。恐らく,それは態度としては出来るだけ「日本人」の種類を多様化させないという一種の価値観をとっているためだと考えられます。しかしそれが「不可解」であるだけでなく,「不当」であるといえるためには,「正当」だといえる国籍のあり方の新しい像が必要になる訳です。

 この文脈では,もちろん小さな範囲でこうした像を変更するようなケースもあり得る訳です,例えば,日本にはいわゆる在日韓国人・朝鮮人が多数生活していますが,少なくとも彼(女)らが望むのならが,ほとんど無審査で日本国籍取得を認めるというケースは結構強力かもしれません。彼(女)らは,日本の事実上永住者ですし,言語や生活習慣等の点で,平均的な「日本人」と変わる点もほとんどなく,この緩和で,その類の弊害はあまりないと考えられるからです。

 JDA大会でも確かに,こうしたケースがでていました。それも,在日韓国・朝鮮人にのみ,日本の国籍を与え,しかも二重国籍も認めるという興味深いアプローチでした。しかし私の見た試合では,否定側の「彼(女)らに参政権を与える」というカウンター・プランにあっさり負けてしまいました。というのも,その試合では肯定側の上げたメリットが参政権についての分析だけでしたし,しかもその参政権をあげるということの価値的な本質が論じられていたかったからです。二重国籍というのもそれだけでも良いケースのネタですが(そもそも先進国では二重国籍を認める国も増えています),話を在日韓国・朝鮮人の問題に限ったとしても,彼(女)らが「日本人」に加わる,より積極的な価値分析が他にもないと,最後には戦いにくいでしょう(戦後補償の問題も含め,色々な論じ方があるとは思います)。

 国籍をとらない永住者に,参政権を上げるという「外国人参政権」カウンター・プランというのは,否定側のアプローチとしては,ケースを選ばず汎用的に(ジェネリックに)用いられるかもしれません。それに対しては,「国籍を持っていないものの参政権は悪用の余地がある」(例えばその外国籍の永住者の母国と日本の国益が対立する場合など)というカウンター・プラン固有の弊害として論じることも出来たのです。そもそも立場としては,参政権こそが国籍の最も本質的な要素だと考える人もいますが,そうなるとカウンター・プランがトピカル(命題的)であることを論じることもできたかもしれません。

 いずれにせよ,いわゆる「在日」のケースの取り扱いや,こうした参政権の問題,または二重国籍の是非,これらは,まさに今回の「国籍」ディベートのより本質的な問題に踏み込んでいく興味深いケースのネタでしょう。

 なお,JDA大会では,かなり大あじな試合ではあるのですが,このBの領域に踏み込んでいて,かつジャッジしていて最も楽しかった試合がありました。そこでの肯定側は,現在の日本には,無国籍児や不法入国者の児童など,日本に住みながら日本国籍がないが故に教育も医療もまともに受けられない児童が多数いるという分析を行い,「子供には全く罪はないし,この子たちにはまともに生存し,成長する権利がある」という価値原則を至上の命題として押し立てていました。そして,面白いことに,この価値原則を達成するために,その子たちに国籍を与えるだけでなく,その親にも国籍を与えるべきだというプランを論じたのです。

 これはある意味では面白い思考実験でしょう。仮にもし罪のない乳幼児を救うという原理が至上のものであるなら,確かにそのためには,その親にも国籍を与える,または不法入国を免罪するような制度が必要かもしれません。というのも,その時の肯定側が論じていたのですが,その児童の親たちは自らの不法入国の発覚をおそれるために,そもそも子供を病院等にさえ連れて行かないらしいからです。このディベートでは,対する否定側は,既存の「日本人」の負担が増してでも,明らかに不法に入国した現在の外国人を新たなる「日本人」として迎えてでも,子供たちを救うべきなのか等と,,肯定側の価値原則に対して反論しておりました。そして自らの立場として既存の「日本人」の負担を増やすのは間違っているという価値原則を論じていました。

 ちなみに,試合としては,そうした価値原則に合致する(あるいは違反する)具体的な現象の発生可能性について論じていなかったので,その点は不満が残りましたが,ジャッジをしていて楽しかったのは,はたしてこうした子供の命や人生にある国家はどこまで責任をとるべきなのかという非常に倫理的に奥深い問題を,そもそもジャッジしている私自身に対しても提起していたからです。こうした価値対立を具体的に利益や弊害として呈示する事実認識の部分などをつめれば,これはかなり本質を突いたディベートになりえると思いました。

4 「国籍」ディベートの本質

 さて最後に,このBのタイプのケースで,もっと直接的に論じて欲しかったのですが,まだあまりでていない種類のケースについて述べておきます。それは,国内の「国際化」にともなう生活のヴァラエティの豊かさを,より直接的に論じるケースです。現状では,「日本人」のライフスタイルを共有しないものは日本国籍を取るべきでないというかなり非寛容な取得条件となっていますが,現実の「日本人」のライフスタイルもこれだけ多様化しているのに,そうした態度でいいものかどうかを論じる,つまり積極的に例えば「韓国・朝鮮系日本人」,「ブラジル系日本人」,「フィンランド系日本人」,「コンゴ系日本人」などが存在することこそが,価値のある国家像・社会像なのだというストレートな新価値を論ずる肯定側があっても良いかと思います。様々な価値観や文化・伝統を持つ人が「日本人」となることで,より生産的でより幸福な社会を築けると論じる,このような議論です。

 国籍というものは,じっくり考えてみれば不思議なものです。今,私たちはどこかの国で国籍というものを持っていることが当たり前だと思っています。しかし「日本国」と現在呼ばれている場所(日本列島)に200年前に住んでいた人に,「あなたは何人ですか」と聞いたところで,「日本人」と答える人は当時まず皆無に近かったでしょう。

 現代ならば,「あなたは何人ですか」と聞かれたなら,日本列島で誕生した人間のほとんどは,まず職業だの所属大学だのを答えたりする前に,「日本人です」と答えるのではないでしょうか(特に「外国人」と呼ばれる人や「外国」と呼ばれる場所にいる際には)。既にJDA春期ディベート大会でもそれなりに問題になっていましたが,いつのまにか国籍というものは,日本列島に住む多くの人々のアイデンティティ,つまり「私は何者か」という自己認識の強固な一部分になってしまっているのです。このことは先にも述べたように,特にオリンピックやワールドカップを見ている時などにも感じさせられることでしょう。

 国籍というものの不思議さは,他にもあります。現代の私たちは,基本的な人権を持っているという発想が当たり前のようになっており,基本的には他人に迷惑をかけない限り,自分が好む場所で,自分が好む生き方で生きることができると教えられております。それも自分の出身国に限らず,世界中の好きな場所で,好きな職業に従事することを選ぼうと思えば選ぶことができます。事実,老後をスペインやオーストラリアで過ごす日本国籍の保持者も多数います。しかしそうだとはいっても,逆に,いくら日本という国が好きで日本に骨を埋めようとしても,無条件で日本国籍をとり「日本人」になれるわけではありません。不思議なことに企業を変えたり,望む場所に住民票を写すのと同じくらいの簡単さでは,「国籍」というものだけは移せないのです。

 今回の論題でディベートすることで感じとり議論を深めて欲しいのは,まさにそうした国籍というものの様々な不思議さなのです。

 ある特定の地域における暴力手段(軍事力・警察力)のほとんどを独占する「国家」と呼ばれるいくつかの集団が,その地域における住民のほとんどを「国民」と呼んで管理下に置き,しかも世界中に「国境」と呼ばれる線を引き,それにより地域と住民とを分割する枠組み,こうした枠組みは専門的には「国民国家体制」と呼ばれています。こうした体制が世界に広まったのは,ほんの数百年前のことにすぎません。

 その体制の下で「国民」を識別する国籍という属性は,そもそもは軍事的な意味合いと不可分でした。つまり国家という枠組みとその利権を維持し拡大するための土台となる人員(徴兵と徴税の対象となる人間集合)を囲い込むための境界線であったのです。そして,その「国民」の間には,愛国心とよばれる精神状態を持つことがあおられ,少なくとも,いつの間にか,人間はいずれかの「国民」であることに何の不思議も感じなくなっているのです。

 私たちはとやかく,「日本人」というものがあって,その「日本人」が集まって作った国家が「日本国」だと考えがちですが,歴史的な事実は全く逆で,「日本国」の成立のあと,そこの支配下にある人間に対し「日本人」というアイデンティティが与えられ,それが強化されていったというのが実像のようです(社会学の分野では,アンダーソンの『想像の共同体』という本がこの問題を考えるための必読書とされています,今期のプロポジションについて深く考えてみたい人は,是非読んでみて下さい)。

 さて,国籍という人間属性には,その後,軍事的・徴税的な意味合いだけでなくさまざまな意味が付与されていきました。例えば,国家の福祉的機能が高まるにつれ,そのサービスの受益者を限定するという境界線としても機能してきました。また国家の為政者を選挙で選ぶという民主制が定着するに従い,その選挙人・被選挙人(参政権)の境界を画定するという線にもなってきました。

 しかし「グローバル化」が叫ばれる現代は,国民国家が確立した頃に比べ,格段に物理的な移動手段も通信手段も進歩し,人と物の国境を越えた移動は比較にならないほど増えています。私たちの時代,そしてこれからの時代において,「国籍」という人間属性が持つ意味は不可避的に変容せざるを得ないでしょう。そしていままで引かれていた様々な境界も引かれ直さざるをえなくなっております。

 それがどのような変化であるべきなのか,それを考えることこそが,今回のディベート論題の本質であると私は考えております(断るまでもないことですが,プロポジション委員会の見解ではなく,あくまで矢野の個人的見解です)。そして,まともなジャッジでディベートが行われ,質の悪い議論が淘汰されていく限りは,そこら辺に議論が収斂していくはずなのです。

 しかし,はたしてどうなるでしょうか。ディベーターやジャッジの皆さまのお手並みを拝見といきましょうか。

(やの よしろう)

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